youtube見てて


youtubeの再生数ランキングを見ていると、顕著に再生数の多い映像っていうのはこういう映像だったりする。世界中の人たちがこの映像を見て、そして笑っている。

マクルーハンの提唱したグローバル・ヴィレッジは今やインフラとして整備されたインターネットによって現実化した。けれどもかえってそれは国家、もくしくはより小さなコミュニティを強調しているようにもみえる。確かにグローバル・ヴィレッジはグローバルな村であって、そういった小さなコミュニティとグローバルさというある種矛盾を孕んだ言葉であって、現状ではマクルーハンの予言は部分的に肯定も否定もされている。

で、youtubeの映像に話を戻すと、再生数の多い映像は政治、文化に関係なく、単に笑えたり泣けたりするプリミティブな感情を沸き起こす映像だということ。そして、私たちが笑うとき、私たちは能動的に笑うことは出来ない。(普段の生活の中で作り笑いとか、苦笑いをする時はあるけれども、そうではないシンプルな「笑い」のこと)つまり何かの現象に対して私たちは笑わされる。

つまりそういったプリミティブな感情は人間が持っている機能であって、グローバルなものだといえる。だからグローバルな感情の結びつきを作る。しかしその感情は私たちが意思を持って能動的に行う行為ではない。意思を表明し、能動的に行為することが近代的な個人としての主体の定義ならば、ここには(この動画の持つ繋がりには)そういった個人のアイデンティティはない。そして小さなコミュニティや、ナショナリズムがそれへの反動、もしくは対として見えてくると考えるとすっきりする。
グローバル・ヴィレッジはその言葉通り二極化した状態であらわれたんじゃないかと思う。youtube見ていてなんとなくおもた。

φたにぐち